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札幌高等裁判所 昭和61年(う)90号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役六年に処する。

原審における未決勾留日数中七五〇日を右刑に算入する。

原審の訴訟費用中、証人A1、同A2、同A3、同A4、同A5(第二回公判期日分)、同A6、同A7、同A8、同A9、同A10、同A11、同A12、同A13、同A14、同A15、同A16(第一四回公判期日分)、同A17、同A18、鑑定人A17、同A18に各支給した分は、いずれも被告人の負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は、検察官原武志提出(検察官久保裕作成)の控訴趣意書、弁護人村部芳太郎及び被告人提出の各控訴趣意書(ただし、被告人提出の控訴趣意書については、未決勾留日数の本刑算入に関する量刑不当の主張部分のみ陳述し、その余の主張部分は陳述しない。)に記載されたとおりであり、各答弁は、検察官原武志提出の答弁書、弁護人村部芳太郎提出の答弁書、被告人提出の答弁書(ただし、七枚目を除く。)に各記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一原判決の有罪部分についての検察官、弁護人の各控訴趣意について

一  関係証拠によれば、昭和五八年五月初めころから同月九日ころに至る間の被告人の行動をめぐり、およそ次の関係事実が認められ(なお、時間的順序にしたがい、関係事実の間に、本件の各公訴事実の要旨とそれに対する原審の認定結果をかぎ括弧で表示する。)、その認定を左右するに足る証拠はない。すなわち、

(1) 被告人は、高校卒業後、露店関係の仕事に入り、B初代分家C一家名乗り親分となり、金融業などをしながら札幌市a区bcd丁目e番f号g荘h号室に母親とふたりで暮らしていたが、昭和五七年一〇月一一日、前刑(覚せい剤の使用一回と所持一回の各所為で覚せい剤取締法違反罪に問われ、懲役一年六月)の受刑を終えたもので、その後も覚せい剤を扱っていたが、昭和五八年五月二日、子分のA16、その友人のD1、A14(子分D2と懇ろな関係にあった女性)、その友人さゆりの四人を伴って、A16の運転する車で、札幌から親分Cのいる北見へ赴き、北見市内のホテルi1に同行者四人とともに宿泊し、翌三日同地を発ってその夜札幌へ戻った。

【「被告人は、法定の除外事由がないのに、同月四日ころ、札幌市a区kl丁目所在のホテルi2i3において(ただし、当審第一二回公判期日で「ホテルi2客室において」と訴因変更をすることが許可された。)、A14に対し、覚せい剤の粉末約〇・〇三グラムを無償で譲渡した」として起訴されたが(昭和五八年八月一六日付起訴状第一の事実)、原審は犯罪の証明がないとして、無罪とした。】

(2) 同月六日、被告人は、以前服役中に知り合い、時にその運転する車を利用していた弟分のA6らと、当時札幌拘置支所に勾留されていた内妻D3に面会に出かけたが、当日は面会できずに翌日出直すこととした。翌七日午前一一時ころ、かねて覚せい剤のことなどで付き合いがあり、いい女の子がいたら紹介してくれるよう頼んでおいたA7が被告人方を訪ねて来て、「覚せい剤を分けてほしい。覚せい剤をやればセックスさせる女の子がいるので紹介する。」(この女の子とは、D4のことであった。)と言うので、覚せい剤を分けてやった(ただし、その分量及び有償であったか否かについては、両者の言い分にくい違いがある。A7は、分けてもらった覚せい剤を持って、右D4と覚せい剤の客A8が待っている札幌市m区no所在のホテルi4の「i5」の間に戻り、右覚せい剤の水溶液をつくり、右D4、A8と三人で注射して使用した。)。同日午前一一時すぎころになって、右A6が被告人を拘置支所へ送るため車で被告人方に来たものの既に時間が遅く、当日は土曜日で面会時間に間に合いそうにないので、結局面会は取りやめることにしたが、被告人は、A7から話のあった女の子を右A6に世話してやることにして、同人運転の車でA7らのいる前記ホテルi4へ向かい、午後零時半ころ着いた。そして、前記A7らのいる「i5」の間に入ると、A7の連れで初対面のA8と若い女性(D4)がいた。被告人が午前中に分けてやった覚せい剤の効きめをA7に聞いたところ、「よかったですよ」と答え、A8とD4を指さして、「(このふたりには)効いちゃって、効いちゃって」と言った。被告人は覚せい剤の小分けをすると言って、A6にビニール袋作りを始めさせた。A7は被告人がA6と二人連れで来たのを見て、もう一人女の子が必要であると察し、A8を伴って適当な女の子を探しに出かけた。

【「被告人は、法定の除外事由がないのに、同月七日、ホテルi4の客室「i5」において、A6に対し、覚せい剤の粉末約〇・〇八グラムを無償で譲渡した」として起訴され(昭和五八年八月一六日付起訴状第二の事実)、原審は有罪を認定した(原判示第一の一の事実)。】

(3) その後、被告人は、A6と前記D4を「i5」の間に残して、一人で同ホテルの「i6」の間に移った。

午後二時過ぎころ、結局適当な女の子を探すことができなかったA7がA8と一緒に同ホテルへ戻って来て、A6とD4のいる「i5」の間に立ち寄った後、一人で被告人のいる「i6」の間に来た。

【「被告人は、法定の除外事由がないのに、同月七日、ホテルi4の客室「i6」において、A7に対し、営利の目的で覚せい剤の粉末約一グラムを代金三万円で譲り渡した」として起訴され(昭和五八年六月一七日付起訴状第一の事実)、原審は有罪を認定した(原判示第一の二の事実)。】

(4) 被告人が「i6」の間に移った後、A6は、「i5」の間にD4と残り、同女にビニール袋入りの覚せい剤の粉末約〇・〇四グラムを無償で譲り渡したが、これは後に、死亡したD4の持ち物の中からそのまま発見された。

(5) A7とA8は一緒に同ホテルを立ち去り、A6は午後三時半ないし四時ころ立ち去ったが、被告人は、「i5」の間から移ってきたD4と二人だけで「i6」の間で過ごした(この間、D4は午後四時半ころ同市m区pqnの自宅ヘタクシーで戻り継母と会った後、午後五時四〇分ころ自宅を出て、再び被告人のいる「i6」の間に戻った。)後、午後一〇時半ころ、迎えにきたA6の車にD4とともに乗り、一旦自宅に立ち寄って着替えをして、再びA6運転の車で、D4とともに同市a区kl丁目に所在する行きつけのホテルi2に赴き、午後一一時ころ同ホテルi3に入り、翌八日午前二時ころになったら迎えにくるようA6に命じ、同人を帰した。

【「被告人は、法定の除外事由がないのに、同月七日ころ、ホテルi2i3において、覚せい剤を含有する水溶液を自分の腕に注射して使用した」として起訴され(昭和五八年五月三〇日付起訴状の事実)、原審は有罪を認定した(原判示第一の三の事実)。】

【「被告人は、法定の除外事由がないのに、D4と共謀のうえ、同月七日午後一一時一〇分ころ、ホテルi2i3において、覚せい剤を含有する水溶液を同女の腕に注射して使用した」として起訴され(昭和五八年六月一七日付起訴状第二の事実)、原審は有罪を認定した(原判示第一の四の事実)。】

(6) 同日午後一一時すぎころ、被告人がD4に覚せい剤を注射して間もなく、同女の様子がおかしくなり、頭痛、胸苦しさ、吐き気を訴え、翌八日午前零時半ころにはあらぬことを口ばしるなど錯乱状態に陥り、二階にある同室の窓の戸を開けて外へとび出そうとするので、被告人がこれを制止して事なきを得たが、同女は、衣服を投げ捨て素裸になり、手当たり次第ものを投げつけ、浴室へ入ってむやみに冷水を浴びた。その後被告人が同女をベッドに連れて行き寝かせようとすると、これに抵抗して激しく室内を動きまわるなど、被告人との間でしばらく揉み合いが続いた。しかし、被告人が同女に足払いを掛けて床に倒して、ようやく静かにさせることができたが、もはや手に負えないと感じた被告人は、同日午前一時半ころ、同ホテルの管理人室に電話して、「女が酔っ払っているので手を貸してくれ。」と依頼するとともに、ホテルの従業員に見付かることをおそれて所携の覚せい剤、注射器、注射針などをトイレに流して始末した。午前一時四〇分ころ被告人の依頼に応じてメイド二人がi3の入口まで来たが、前もって迎えにくるように命じておいたA6がちょうどやって来たので、被告人はメイドを部屋に入れないまま帰した。A6が部屋に入ると、D4が足をベッドの端に掛けたまま全裸で床に倒れており、呻き声をたてて苦悶しており、浴室のシャワーは出しっぱなしで、床にはD4の下着類が散乱していた。その後、濡れタオルを倒れているD4の頭に乗せたが、被告人は、ホテル側が事態を怪しんで警察へ通報したのではないかと危倶し、様子を窺うため管理人室へ赴き、「部屋を汚したから」と言って、管理人に五〇〇〇円を握らせた。被告人は、善後策を講じるため、稼業上の兄弟分であるA13らに電話で連絡をとったが、うまくいかなかった。そこで、被告人は、ホテル備え付けの浴衣を全裸で倒れているD4に着せかけ、午前二時ころ管理人室へ電話で、「用事で一時間程外出するが、女の子は容態がよくなったのでそのまま残していく」旨連絡したうえ、午前二時一五分ころA6運転の車で同ホテルを後にしたが、i3を出るとき、同室の床に倒れたままのD4は足を痙攣させていた。午前三時半ころA6がホテルi2の管理人室に電話して、もう少ししたらホテルへ戻る旨伝えたが、被告人、A6ともそのまま同ホテルには戻らなかった。その後、i3から同ホテルの管理人室へはなんの連絡もなかったが、部屋の使用を延長するか否か確認のため管理人室から同室に電話したところ応答がないので、同日午前一〇時四〇分ころ、従業員が同室に入ってみたところ、D4が被告人らが退室したときと殆ど同じ状況で床の上に倒れたまま死亡しているのが発見された。

【「被告人は、D4に覚せい剤を注射したうえ同女と淫行しょうと考え、同月七日午後九時四〇分ころ、ホテルi4の客室「i6」において、同女に覚せい剤(約〇・〇四グラム)の水溶液を注射し、更に同日午後一一時一〇分ころ、ホテルi2i3において、同女に覚せい剤(約〇・〇四グラム)の水溶液を注射したところ、同女は同日午後一一時三七分ころから頭痛その他の症状を訴えはじめ、翌八日午前零時二五分ころからは、同女が強度の急性覚せい剤中毒症状を呈して重篤状態に陥ったから、直ちに医師の診察・治療を求めるなど生存に必要な保護を加えるべき責任があるのにこれを怠り、同日午前二時一五分ころには同女を同室に放置したまま同室から立ち去り、同女を数時間後に同室において覚せい剤による急性心不全のため死亡するに至らせた」として、保護者遺棄致死罪で起訴されたが(昭和五八年八月一二日付起訴状の事実)、原審は、被告人の遺棄行為とD4の死亡との間の因果関係の証明が十分でないとして、保護者遺棄罪の限度で有罪を認定した(原判示第二の事実)。】

(7) 被告人は、五月八日午前四時ころA6の運転する車で自宅に帰り、A14に電話をかけ、同女と懇ろであったがしばらく前から行方をくらませていた子分D2の居場所がわかったから出てくるようにと呼び出し、A6運転の車で送らせて、同女と札幌市s区内のホテルi7に投宿した。その後、被告人は、D4がホテルi2i3で死亡したことをテレビのニュースで知り、B一家の者から警察が被告人を探していると聞き、同日午後九時ころ北海道警察本部に右A14を伴って出頭した後、事件所轄の札幌方面北警察署へ赴き事情聴取に応じ、取調官の求めにより尿を提出して帰宅したが、翌九日午後一時三〇分ころ、自宅において覚せい剤の自己使用の被疑事実で通常逮捕された。

右のような関係事実を前提として、以下検討を加える。

二  原判示第一の各事実(覚せい剤取締法違反の各事実)について

弁護人の論旨は、原判示第一の各事実について、いずれについても原判示のような事実自体存在しないのに、これらを認定した原判決の事実の誤認は、判決に影響を及ぼすと主張する。

そして、被告人は、これら原判示第一の各事実について、捜査段階においては概ね認めるか、あるいは認めるような態度を示していたが、原審段階になって、これらをすべて否認するに至った。

検討するに、原判決が原判示第一の各事実を認定したことに、事実の誤認の廉は認められないが、所論にかんがみ以下に説明を加える。

1  原判示第一の一の事実(昭和五八年五月七日ホテルi4の客室「i5」において、A6に対し、覚せい剤約〇・〇八グラムを譲り渡した事実)について

A6は、原審第三回、第四回各公判調書中の証言供述部分(以下、一括して「A6証言」という。)において、大要次のとおり供述する。

すなわち、「自分は、覚せい剤譲渡の罪で札幌刑務所に服役中、昭和五二年秋ころ被告人と知り合って弟分となり、その後しばらく付き合いがなかったが、昭和五八年三月ころ商売の資金繰りの援助を受けたことから再び被告人と交際するようになり、借金のかたに自動車を提供して被告人の運転手代わりなどをしていたもので、その間被告人と一緒に覚せい剤を使用したこともある。当時札幌拘置支所に勾留されていた被告人の内妻に面会に行く被告人を送るため、五月七日の午前一一時半ころ被告人方を車で訪ねたが、面会は中止することになった。ところが、A7という者から被告人にどこかのホテルで待っている旨の電話がかかってきた。自分は、被告人から女を紹介するといわれ、一緒にホテルi4へ車で行き、客室「i5」に入ったところ、A7、A8とD4がいたが、D4とA8は覚せい剤を打ったような気配であった。被告人が覚せい剤の小分け作業をするというので自分は二センチないし三センチ四方くらいのパケ一〇枚ほど作るのを手伝った。A7とA8は部屋を出ていったが、その後被告人は「i6」の間へ移った。その際、「もしその気があるなら女の子を抱け。二人でやればいいんだ。」といって、紙に乗せた四、五回分の覚せい剤をくれた。自分はパケ作りの手間賃だと思った。部屋には自分とD4が残ったが、自分は被告人からもらった覚せい剤の約半量を水溶液にし、自分が持っていた注射器を使ってD4と二人で打とうとしたときA7が部屋に戻ってきたので中止し、結局、機会を逸してしまい覚せい剤の水溶液は捨てた。残りの覚せい剤はビニール袋の口をライターで焼いて閉じたうえ、D4に無償でやったが、ホテルi2i3に遺留されていた同女の所持品の中にあったビニール袋入りの覚せい剤〇・〇四グラムは、そのとき自分が同女にやったものであることを、警察で見せられて確認している。その後「i6」の間に行って被告人と話した後、午後三時半か四時ころ右ホテルi4を自分だけ退出した」というのである。

そして、A6は、「昭和五八年五月七日ころ、ホテルi4の客室「i5」において、被告人から覚せい剤約〇・〇八グラムを譲り受け、同日同所において覚せい剤〇・〇四グラムを右D4に譲り渡した」旨の覚せい剤の譲り受け及び譲り渡しの訴因で起訴され、いずれも起訴事実をそのまま認めて昭和五八年七月一八日札幌地方裁判所において実刑判決をうけ、服罪したこと(A6証言、A6に対する判決書謄本)、同人は、本件の原審における証言でも、前記のとおり自分の有罪を前提とする供述を維持したこと、更には、右A6証言は、同証言中に現れるA7、A8が原審でそれぞれ証言するところ(A7につき原審第五回公判調書、A8につき原審第七回公判調書)とも、覚せい剤受け渡し前後の状況についての描写内容がよく符合することなどの事実に徴すると、A6証言の信用性は高いものと認められる。のみならず、被告人は、検察官に対する昭和五八年五月二三日付、同月三〇日付及び同年七月一五日付各供述調書において、右事実を認めているのである(もっとも、被告人の検察官に対する昭和五八年五月二三日付供述調書では、譲渡した覚せい剤の量は、約〇・三グラムであるというのであり、A6も証言途中で〇・三グラムくらいと言った後に〇・〇八グラムくらい(D4が遺した覚せい剤のおよそ倍量)と訂正するなど譲渡量の点でやや混乱がみられるが、原判決もいうとおり、いずれも目分量で供述していることなども考慮すると、特定の日時、場所における両者間の覚せい剤の譲渡の事実として特定は十分であると考えられる。そして、D4が遺した覚せい剤の量(これは、鑑定の際約〇・〇四グラムと計量されている。)のおよそ倍量であった旨のA6の訂正供述及び被告人の検察官に対する供述調書(昭和五八年五月三〇日付、同年七月一五日付)の記述は、措信できるというべきである。)。

被告人は、原審冒頭の罪状認否の供述において右覚せい剤譲渡の事実を否認し、その後も否認を続けるとともに、「これまでA6に覚せい剤を仲介して売ったことが複数回あり、またA6から覚せい剤を貰ったこともあるが、本件当日、A6に覚せい剤を譲り渡したことはない。逆に、本件当日の午前中、ホテルi4に赴く前に、自宅でA6から覚せい剤約〇・四グラムを貰い、A6の注射器を借りて自分で使用したことがあり、その使い残りは、最終的にはホテルi2のi3で捨てた。ホテルi4の部屋に行ってから、A7に対し覚せい剤の小分けをすると言って、一緒に行ったA6にビニールでパケ作りをさせたことはあるが、これは、A7らに対し自分が覚せい剤を多量にもっているかのように装って誇示しようと作為したもので、実際には小分けのためにホテルi4に行ったのではない。また、A6にパケ作りをさせた礼として、女と使うように同人に覚せい剤をやったと供述したのは、警察の取調べ段階で考えた筋書きであって、覚せい剤を同人に渡したことはない。」(原審第二三回、第二四回各公判調書)などと述べ、当審においても、かたくなに同旨の弁解を繰り返しているが、先に検討したところに徴し、その弁解は不自然であって、たやすく信用できない。

2  原判示第一の二の事実(昭和五八年五月七日、ホテルi4の客室「i6」において、A7に対し、営利の目的で覚せい剤約一グラムを代金三万円後払いの約束で譲り渡した事実)について

A7は、原審において証言(原審第五回公判調書)して、「昭和五八年三月ころ、自分が覚せい剤を買っていたD5のところで被告人と会い、知るようになった。同年四月初めころ、D5のところに警察の手入れがあり、覚せい剤の入手が難しくなったので、同月終わりころbの被告人のアパートへ覚せい剤を買いに行って、以来親しく付き合うようになった。自分は同年五月一〇日に逮捕されたが、それまでに被告人から覚せい剤を五、六回買ったことがある。自分は、被告人から覚せい剤を買った最初のときか、二回目のときに、被告人から女を紹介しろと言われたので、友人のD6に相談して、同月六日の深夜落ち合い、右D6がD4という女の子を連れて来たので、被告人に幾度も連絡をとろうとしたが取れず、夜も更けたのでD6、D4と三人で、ホテルi4の客室「i5」に泊まってごろ寝したが、D4は生理中であると言っていた。翌七日朝に右D6が帰った後、D4と二人になり覚せい剤を打つ話になった。そこで、覚せい剤の顧客であるA8を電話で呼び出して注射器を借り、同人と外出して一万円を金策したうえ、被告人に連絡をつけ、同日午前一一時ころ被告人方に覚せい剤を買いに行って、先に調達した一万円を払って覚せい剤の一万円パケ一個(約〇・二五ないし〇・三グラム入り)を入手したが、その際被告人に覚せい剤をやればセックスさせる女の子がホテルi4にいると話すと、被告人は刑務所に面会に行かなければならないと言っていたが、i4へ行きたそうな様子であった。自分はホテルi4へ戻って、同日午前一一時半ころ、D4、A8と一緒に被告人から買い入れた覚せい剤を打った。覚せい剤は四発分あって、一発分余った。その後三〇分くらいして、被告人とA6の二人がホテルi4に来た。A6とは、被告人のところに覚せい剤を買いにいったときに一度会ったことがある。部屋に入って来た被告人から今回のやつ(覚せい剤)どうだったときかれたので、よかったと話した。自分が被告人に、「女の子は生理中だ。」と言うと、被告人は、「いや、女の子じゃない。(覚せい剤を)小分けに来た。」などと言っていたが、自分は、口ではそう言っていても覚せい剤を打ってセックスする気だなと思った。被告人とA6の二人来たのに、紹介する女の子が一人しかいないので、D4に知り合いの女の子に電話させたが、連絡が取れなかった。そこで、自分は、A8と一緒に女の子を探しに出たがうまくゆかず、午後二時半ころホテルi4へ戻ると、客室「i5」にはA6とD4の二人がいて、被告人はもう客室「i6」の方に替わっていた。客室「i5」では、A6がベッドに横になって、注射器を手にして中の覚せい剤を溶かしていた。A6はこの女の子と覚せい剤を打ってセックスするんだなと思ったので、自分は「i6」の間に移ったが、そこには被告人がひとりでいた。被告人から(覚せい剤を)「持って行くか」と聞かれたので、「持って行きます」と答えると、被告人は秤を出して、覚せい剤を五グラムパケ二個の中から一グラム分けてくれた。秤にかけるとき、丸いつまみの付いた一グラムの分銅があったので分けてもらった量は一グラムだと思った。代金三万円は、被告人の方から後払いでよいといったので、翌日代金を支払う約束をした。それからA8と二人でホテルi4を出た。帰宅後、一万円で買った分の残りと三万円で買った分を一緒にして、同月七日夕刻、その中から一回使った。次に同月八日午前一〇時ころ、自宅で覚せい剤を打ったのが最後の使用である。そのとき、警察無線を傍受していて、D4が死亡したことを知った。そこで、警察が自分のところにも来ると思い、使い残りの覚せい剤を、翌九日札幌市m区内の喫茶店「D7」で、A8に「売れたら売ってくれ。」と言って代金四万円の約束で渡したが、その後代金は払ってもらっていない。同年五月一〇日に逮捕されたが、同月七日の被告人から覚せい剤約一グラムを代金三万円で譲り受けた事実、同月八日の覚せい剤を自宅で使用した事実及び同月九日のA8へ覚せい剤四パケを代金四万円で譲り渡した事実で起訴され、同年七月一二日、懲役一年の実刑判決を言渡されて服役した。」と述べ、被告人本人のおこなった質問に対し、「i4で覚せい剤を一グラムもらったとき、現金のやり取りはしていないし、後日現金のやりとりをしたこともない。帰り際に、被告人から自分に対して、女の子を連れて来てホテル代もかかっているし、経費もかかっているだろうから三万円くらいの値はするんだけども金はいらないから、と言われた覚えはない。」と答えている。

また、前記のA8は、原審第七回公判期日において証言して、「自分は、昭和五八年五月九日札幌市m区tの喫茶店でA7から覚せい剤約〇・九グラムを代金四万円で譲り受けた事実と函館で覚せい剤を使用した事実で起訴され、同年七月七目覚せい剤取締法違反罪で懲役一年六月の実刑判決の言渡を受け服役中である。

被告人には、D4の死んだ事件のあった同年五月七日にi4というホテルで初めて会った。自分は前にも覚せい剤の前科があるが、再度覚せい剤を使用するようになったのは、D8の若い衆であるA7に仕事がないかと頼んだことがきっかけである。右七日の朝八時半か九時ころA7から電話で、「仕事のことで話があるからポンプを持ってこい。ホテルi4に居る。」という呼び出しを受け、銭函の自宅から注射器を持って行ったが、覚せい剤は持っていなかった。ホテルi4にはそれまでにも二、三回行ったことがあった。ホテルi4に着いたのは午前九時半ころであった。同ホテルの「i5」の間に入ると、A7とD4の二人だけがおり、D4は横になっていた。A7と自分は外出して、A7がsの方で一万円集金し、それから被告人方に行ってA7が覚せい剤を買ったが、自分は被告人方の外で待っていた。買った覚せい剤を持ってホテルi4の「i5」の間に戻り、すぐ打とうということになり自分が用意し、D4も起きてきて、三人で打った。三人分の使用量は〇・〇七グラムくらいであったが、買って来た量は〇・二グラムくらいであった。A7が最初D4に注射し、次がA7自身で、最後に自分にA7が打った。D4は少し効いたようにいっていた。その後、被告人とA6がホテルi4へ来たが、A6とは初対面であった。自分は、A7が女の子を紹介したんじゃないかと感じた。自分とA7は外へ出たが、その前に、被告人がA7に覚せい剤を小分けしてよいかと聞き、A7は承諾した。A7と自分は気を利かせて午後三時前ころ外出した。二人でドライブしながら、一時間くらい女を引っ掛けようとしたがうまくいかなかったので、ホテルi4へ戻り、「i5」の間へ行ってみると、そこには、A6とD4がいた。D4は疲れた様子だったので、覚せい剤をまた打ったのではないかと思った。その部屋には五ないし一〇分くらいいた。一、二分かもしれない。その後、A7は「i6」の間に行つたが、自分は外の車で待っていた。A6が「i6」の間に行くのがホテルの中の駐車場から見えた。D4とA7が「i5」の間から出て来たが、D4はすごく疲れた様子であった。自分は、D4は帰るのかなと思ったら、同女と話をしたA7が同女を「i6」の間に入れてから自分のいる車の方へ戻ってきた。それから、A7に車で琴似の駅の方まで送ってもらったが、途中でA7に注射器を貸した。翌八日、A7から連絡があり、a区のラブホテルの変死体のことを聞いた。A7は、事件のことを警察無線で傍受したようであった。昼のニュースで、ホテルi4でD4が死んだことを知った。同日午後九時ころA7から電話があり、会いたいというので、その翌日の九日午後三時半ころ、m区の喫茶店「D7」で会ったが、その際、覚せい剤約〇・九グラムを同人から譲り受けた。

〇・二グラムのパケ四個、〇・一グラムのパケ一個の計五個で、代金は四万円であった。自分はその日か次の日、函館の方に行った。最後に覚せい剤を打ったのは、自分の判決にあるとおり、同年五月一一日ころと思う。同月一三日に逮捕され、その日に尿を任意提出したが、その際の検尿で出た覚せい剤反応は、同月九日にA7から入手した覚せい剤を使用した結果に間違いない。覚せい剤を他から入手したことはない。」と述べ、被告人からの質問に対して、「A7が被告人から覚せい剤を入手した現場は見ていないが、A7から入手した覚せい剤を見せてもらった。A7は自分の目の前では覚せい剤の小分けをしていない。」と答えている。

このように、原審公判廷における証人A7、同A8の各供述は、その大筋においてよく合致するのであって、前記1において原判示第一の一の事実につき検討したA6の供述、更には、同年四月末ないし五月初めころ被告人に多量の覚せい剤を現金売りした旨のA13の原審証言(原審第一一回公判調書)、同人の検察官に対する供述調書(そして、被告人も、検察官に対する昭和五八年七月一五日付供述調書において、本件で被告人が譲渡しあるいは使用した覚せい剤は、いずれも同年五月三日ころA13から代金一二万円で買い入れた約一〇グラムの覚せい剤の一部であることを認めている。)なども併せみると、いずれも十分信用するに足り、その取引の態様にもかんがみると、本件当日被告人がA7に対し、営利の目的をもって覚せい剤約一グラムを代金三万円後払いの約束で譲渡した事実を認めて誤りないものというべきである。しかも、被告人は、検察官に対する昭和五八年五月三〇日付、同年七月一五日付各供述調書において、右営利目的譲渡の事実を認めているのである。被告人は、原審冒頭の罪状の認否の供述において右営利目的による覚せい剤譲渡の事実を否定し、その後も否認を続け、原審公判廷では、当時しばしば覚せい剤取引の仲介をしていたことを認めながら、「昭和五八年五月七日、A7から自宅に電話があり、覚せい剤がほしい、女の子がいるので紹介するということであった。A7が自宅に来たので、覚せい剤〇・七グラムを無償で渡した。現金がないから後で二、三万積むという話であった。A7は警察に追われているし、稼業の方では不義理をして兄貴分のD5から手配されていた。また、D5らからは、A7は精神病院に入、退院を繰り返しているから、覚せい剤を渡さないでくれと言われていたので、A7にこれで最後だと言って無償で渡したのである。A7は、自分のうちの玄関先で〇・二グラムくらいの小さなパケを作って、後でわかったことだが、外に待たせていたA8には、一万円で自分から買ってきたことにして、残りを懐に入れたらしい。A8の名はそのときは全然聞いていないが、同行して待ってる客がいると言っており、玄関先でパケを作ってその客に渡したということである。自分は、A7にいい女の子がいたら紹介してくれと、前に頼んであった。覚せい剤を使って女と遊ぼうということである。

実際に女の子を紹介してもらって遊んだのは、D4とが最初であった。覚せい剤〇・七グラムをA7に渡したのは、女を紹介してくれることに対する礼だったかもしれない。A7と入れ違いにA6が来たが、勾留中の内妻に面会に拘置所へ行くには時間が遅くなった。ところが、A7からまた電話がかかってきたのをA6が聞いていて、自分の方に紹介してほしいと言うので、A6を連れてホテルi4へ行くことになったのであって、自分自身が女の子と遊ぶとか覚せい剤を小分けするために、ホテルi4へ行く必要はなかった。A6に女を紹介してやる積もりであり、それにどんな女かという興味もあった。ホテルの風呂を使う積もりで、下着の替え、洗面道具など持っていった。しかし、注射器は持っていっていないし、秤も持って行っていないと思う。

秤は自宅にあったものを、後日家宅捜索で見付かったとき勘ぐられても困ると思い、A19検察官とA5刑事に話して任意提出した。この秤は、前刑の罪で捕まったとき使っていた秤である。ホテルi4に着いたのは昼の一二時過ぎであった。「i5」の間に行くと、A7、A8とD4がいたが、D4とA8には初対面で話題がないので、女と遊ぶんでないんだ、それが目的で来たんではない、ちょっとシャブ(覚せい剤)の小分けするだけだから、というような話を切り出してとりつくろった。A7からD4は生理中だという話があった。A7に朝やったシャブどうだったと聞いたら、A7は、「よかったですよ」と言い、D4とA8を指さして、「効いちゃって、効いちゃって」と言っていた。自分は、A6がA7と面識がないため、A6に同行してやったのであって、覚せい剤の小分けのためにホテルi4へ行ったということは全然ない。A7とA8がホテルi4を出ていったのは気を利かしたものと思う。A7らが出ていって二、三分後管理人室に電話して、「i6」の間に移った。二時間位して、A7が「i5」の間に寄った後、「i6」の間に来た。その間、A6とD4は、「i5」の間に一緒にいた。A7は、「一家(被告人のこと)、女と遊ばなかったのかい。今部屋に寄ったら、A6が覚せい剤を使っているような場面でした。」と自分に言った。その際、A7から覚せい剤をくれという話はない。朝自宅で渡して、自分の手元にはもう覚せい剤は無いことがA7には分かっていた。A7が「i6」の間に来た理由は、覚せい剤の交渉をしたがったのと、別の女が見付からなかったことを自分に言いたかったためと思う。それに、A7は覚せい剤の小分けの作業を「i6」の間でしていった。その分量は、朝自分が渡した覚せい剤より多かったと思う。そのときは、女を紹介した礼を貰いたいという感じはなかったようだ。

自宅でA7に覚せい剤を渡すとき、小分けに秤は使っていない。目分量で覚せい剤〇・七グラムくらいを渡した。A7とD4がその中から使っているから〇・七グラムより減っているはずなのに、A7は、〇・九ないし一グラムくらいの覚せい剤を「i6」の間で出して、パケ二、三個に小分けした。どこででも覚せい剤は入手可能なので、自分は、量が多くなった点についてA7に尋ねることをしなかった。A7は、自分が五グラムパケ二個分位の覚せい剤を持っていたというが、嘘である。」(原審第二四回公判調書)などと述べ、当日の午前中被告人の自宅で、訪ねてきたA7に対して覚せい剤を譲渡した事実を認めながら(ただし、A7は覚せい剤の一万円パケ一個(約〇・二グラム入り)を現金一万円払って買ったと言うのに対し、被告人は、覚せい剤〇・七グラムを無償で譲渡したと言い、その譲渡量と有償性の点で言い分がくいちがっている。なお、この事実は起訴されていない。)、ホテルi4の「i6」の間での譲渡の事実は否認し、当審で被告人の供述書として取調べた被告人作成の控訴趣意書(ただし、量刑不当の主張部分を除く。以下同じ。)でも、「自分は、A7に昭和五八年五月七日午前一〇時一〇分ころ、自宅で覚せい剤約〇・七グラムを無償で譲渡したことはある。当時、A7との間で、二万円なり三万円なりの金額の話はしたが、A7が自分に女を紹介するため、ホテルに女を同伴して宿泊するなど、費用がかかっていること、自分の代わりにA6を女性と付き合わせてくれたことなどの代償の意味も含めて、その覚せい剤の代金は要らないと断った。A7もその代金を支払っていないことを認めている。本件覚せい剤の譲渡の事実について、A7の供述をそのまま信用するのは性急に過ぎる。

A7は天秤計りの重りから、一グラム譲り受けたと分かったというが、自分は、ホテルi4に秤を持ち込んだことはないし、また、秤の重りの形状は、一グラムから三グラムまで厚さが違うだけで、見分けは困難であり、重りを見て量を判断することはできない。原判決は、A7が率直に覚せい剤の譲り受けを認めて服役していること、本件の原審公判廷でもその旨述べたことを指摘するが、自分はA7への覚せい剤の譲渡を否定しているのではなく、むしろ積極的に譲渡の事実を認めているのであるから、A7がそれを認めるのは当然である。自分はA7の住所などを知らないから、後払いの約束で覚せい剤を譲渡するのはおかしい。」、「当時、自分が所持していた覚せい剤は、A13から一二万円で仕入れた約一〇グラムの覚せい剤の一部であり、買値以上の値で転売し財産上の利益を目的として有償譲渡したと言われるのは、心外である。」などと主張するのであるが、前記の関係証拠に照らし、右弁解は到底容れ難い。

3  原判示第一の三、四の各事実(昭和五八年五月七日午後一一時一〇分ころ、ホテルi2i3において、覚せい剤約〇・〇八グラムを含有する水溶液約〇・五立方センチメートルのうち約〇・二五立方センチメートルを自己の身体に注射して使用した事実及び右日時、場所において、D4と共謀のうえ、右の残量約〇・二五立方センチメートルをD4の身体に注射して使用した事実)について

被告人が、昭和五八年四月末ないし五月初めころA13から覚せい剤約一〇グラムを仕入れており、同年五月七日午後、ホテルi4において、前記A6にビニールで小分け用のパケを約一〇枚くらい作らせたこと、そして、その礼として覚せい剤約〇・〇八グラムを同人に与え、A7にも覚せい剤約一グラムを秤で計量して有償譲渡したことは、前掲1、2で検討したところであり、関係証拠によれば、被告人は、その後一旦帰宅して同日午後一一時ころD4を伴ってホテルi2i3に入ったこと、翌八日午前二時一五分ころ、被告人は右D4を同室に残したまま立ち去ったこと、同日午前一〇時四〇分ころ、同ホテル従業員により同室でD4が死体で発見され、同女の死体中の体液並びに同女のパンティ及び同室の床に敷かれていた絨毯片(いずれもD4の失禁した尿が付着したとみられる。)につき覚せい剤の存否を鑑定したところ、いずれからも覚せい剤が検出されたこと、他方、同日夜、被告人が札幌方面北警察署において尿を任意提出し、これを鑑定した結果、被告人の尿中から覚せい剤が検出されたことがそれぞれ認められる。そして、被告人は、検察官に対する昭和五八年五月二三日付、同月三〇日付、六月一四日付、同月一五日付、七月一五日付各供述調書において、同年五月七日午後一一時ころ、同ホテルi3に入って間もなく、被告人所携の注射器を用いて、被告人が持っていた覚せい剤の一部を水で溶き、まず被告人自身の腕に、次いでD4の腕にそれぞれ注射した旨、詳細に覚せい剤使用の事実を自供している。このような証拠を併せ考えると、被告人が自分の身体に覚せい剤を注射し、またD4と共謀のうえ同女の身体に覚せい剤を注射して、それぞれ使用したとする原判決の認定に誤りは認め難い。

被告人は、原審の公判段階になって、検察官に対する供述調書の自供は、警察の筋書きに合わせたものであると主張するとともに、「五月七日午前中に自宅に来たA6から貰って打ったのが自分が覚せい剤を使用した最後であり、その後ホテルi4、ホテルi2で覚せい剤を使用したことはない。ホテルi4において、D4から覚せい剤を打ってくれといわれたが、注射器を持っていなかったから打てなかった。ホテルi4を引き払って、琴似の薬局で注射器を買ってD4に覚せい剤を一回打ってやって帰そうと思ったが、A6が車で迎えにきたので、一旦自宅へ寄って着替えをしたうえ使い慣れているホテルi2へ赴いた。A6が注射器を持っていたので、「おまえやってやれ。」とD4に覚せい剤を打ってやるように命じて、一緒にi3に入った。A6は少なくとも三〇分は同室にいたが、自分が入浴中にD4に覚せい剤を打ってやった旨、A6から同人の帰り際に聞いた。A6に命じて注射器は置いてゆかせた。」などと弁解するが、先に検討したところに徴すると到底措信しがたい。また、被告人は、昭和五八年五月八日の尿の提出について、強制ないし利益誘導があった旨弁解するのであるが、関係証拠のうえで右弁解の容れ難いことは、原判決が判示するとおりであると認められる。

その他、詳細な所論の指摘にかんがみ記録を調査し当審における事実取調べの結果をも参酌して検討しても、原判示第一の各事実については、原判決に所論指摘の事実の誤認の廉は認められない。弁護人の論旨は容れることができない。

三  原判示第二の事実(保護者遺棄の事実)について

検察官の論旨は、原判決が被告人のD4に対する保護者遺棄罪の成立を認めながら、被告人の遺棄の所為と被害者死亡の結果との間に因果関係の証明がないとして保護者遺棄致死罪の成立を認めなかったのは、証拠の評価を誤って事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったもので、判決に影響を及ぼす誤りがある旨主張する。

これに対し、弁護人の論旨は、被告人が自ら被害者D4に覚せい剤を注射した事実はなく、右D4は自らすすんでA7、A6らに覚せい剤を注射してもらい、その結果中毒症状が生じたものであるから、被告人としては同女を保護しなければならない責任のある立場にはなく、また被告人は同女の示した症状は覚せい剤による一過性のもので生命の危険はないと確信しており、客観的にも急性中毒死の結果を招く程多量の覚せい剤が同女の体内に存在したわけではないから、緊急に医療を受けさせる必要性があったとは言えず、被告人が同女をそのままにしてホテルi2のi3を立ち去ったことの道義上の責任はともかく、刑事責任を問われるいわれはないのであって、被告人につき保護者遺棄罪の成立を認めた原判決は、事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったもので、判決に影響を及ぼす誤りがあると主張する。

そこで各所論にかんがみ検討を加える。

1  関係証拠によれば、D4は、昭和四四年五月二一日生まれ、一三歳一一か月の中学二年生で、身長一五一センチメートル、体重四七・五キログラムの健康体であり、当時生理期間中であったが、昭和五八年五月七日午前中にA7らとともに使用した覚せい剤の影響からか、同日午後四時半ころホテルi4から一旦自宅に戻った際、顔色が悪く、継母に吐き気を訴えるなどしたほかには、身体に特段の異常は認められなかった。そして、被告人が、同日午後一一時ころ、D4を伴って、前記ホテルi2i3に赴いたいきさつは、およそ前記一の(1)ないし(5)に認定したとおりである。

2  関係証拠(A20作成の昭和五八年六月一五日付鑑定書(添付された科学警察研究所警察庁技官A21作成の検査書を含む。)、A17作成の鑑定書、A20ほか一名作成の同年五月二五日付鑑定書等)によれば、昭和五八年五月八日午前一〇時四〇分ころホテルi2i3において発見された右D4の死体の体液中に、覚せい剤の存在(血液一〇〇ミリリットル当たりフェニルメチルアミノプロパン一七八マイクログラム)が認められたところ、被告人は、右ホテルへ赴く以前、同年五月七日午後九時半ころ、ホテルi4の「i6」の間において、D4から、先に同女がA6から貰った覚せい剤(当庁昭和六一年押第二八号の25)を注射してほしいと頼まれたが、「それはしまっておけ。」と申し向けて、自分が所持していた覚せい剤の中から耳かき二杯分(約〇・〇四グラム)を取り分けて水に溶かし、同女の左腕に注射してやったというのであり(被告人の検察官に対する昭和五八年五月二三日付、同年七月一五日付各供述調書)、さらに、五月七日午後一一時すぎころ、被告人はホテルi2i3において、自分で覚せい剤を注射して使用するとともに、同女に覚せい剤を注射して使用したことは、先に二の3において検討したとおりである。

このような次第で、関係証拠上、昭和五八年五月七日午前一一時すぎころ、ホテルi4の「i5」の間において、A7がD4に覚せい剤を注射しており、同日午後零時半ころ右ホテルに赴いた被告人も、この事実をA7から聞知したうえで(前記一の(2))、少なくとも、同日午後九時半ころと午後一一時すぎころの二回にわたり、D4に覚せい剤を注射したことは、明らかである。

3  ところが、関係証拠によれば、被告人が五月七日午後一一時すぎころホテルi2i3において、覚せい剤をD4に注射して後しばらくして、前記一の(6)にみたように、D4の様子がおかしくなり、頭痛、胸苦しさ、吐き気を訴え、それが徐々に高進し、翌八日午前零時半ころには錯乱状態に陥り、唸り声をあげて苦しみ、被告人の問い掛けにも正常な応答ができず、見当識を失ったかのような意味不明の言葉を発し、さらには風呂に入ると言って二階にある同室の窓を開けて外へとび出そうとし、部屋の中で衣服を投げ捨て素裸になり、手当たり次第ものを投げつけ、浴室へ入って冷水てシャワーを浴び、被告人が、同女を浴室から連れ出して、ベッドに寝かせようとしても抵抗して動きまわるので、またベッドに連れ戻すという揉み合い状態を続けた後、ようやく動きが鈍くなったが、被告人はもはや手に負えないと感じて、同日午前一時半ころ、同ホテルの管理人室に電話をかけ、「女が酔っ払っているので手を貸してくれ。」と頼んだこと、これに応じてメイド二名が同日午前一時四〇分ころ部屋の入口まで来たが、ちょうどそのころ、前もって迎えにくるように命じておいたA6が右i3に来たので、メイドはそのまま帰したこと、A6が部屋に入ると、D4が全裸で床に倒れており、足はベッドの端にかけたままで、体をねじるようにしてもがき、坤き声をたてて苦しんでおり、浴室のシャワーは出しっぱなしで、床にはD4の下着類が散乱していたこと、被告人は、善後策を講じるため、稼業上の兄弟分であるA13らに電話で連絡をとったが、うまくいかなかったので、午前二時すぎころ、ホテル備え付けの浴衣を全裸で倒れているD4に着せかけ、管理人室へ電話で、「用事で一時間程外出するが、女の子は容態がよくなったのでそのまま残していく」旨連絡したうえ、午前二時一五分ころA6とともに同人運転の車で同ホテルを後にし、そのまま戻らなかったが、i3を出るとき、同室の床に倒れたままのD4は足を痙攣させていたこと、同日午前一〇時四〇分ころ、ホテルの従業員が同室に入ってみたところ、被告人らが退室したときと殆ど同じ状況でD4が床の上に倒れたまま死亡しているのが発見されたことが認められる。

4  このような事実関係のもとにおいては、D4の前記の異常な心身の状況は、関係証拠上、覚せい剤による急性の薬理作用によるものであることは明らかであるところ、五月七日午後一一時すぎころ被告人がD4に覚せい剤を注射してしばらくして後、D4が頭痛、胸苦しさ、吐き気などを訴え、それが次第に高進して前記の錯乱状態に陥ったと認められる翌八日午前零時半ころ以降における同女の容態は、軽微な一過性の症状の発現などではなく、覚せい剤により健康を害し、病者として他人の扶助を必要とする重篤な状態にあったことが明らかというべきである。そして、被告人は、同女が同月七日午前中A7らと覚せい剤を使用した事実を聞知したうえで、さらに同日午後九時半ころホテルi4において、また、午後一一時すぎころホテルi2i3において、それぞれ同女に覚せい剤を注射したのであるから、同女が右のような異常な状態に陥るについて、自らその原因を与えたことは明らかであって、被告人自身そのことを十分認識していたと認められること、五月七日午後一一時ころホテルi2i3に同女を連れて行ったのは被告人であり、当時、密室状態の同室には被告人が同女と二人だけで在室しており、同女の容態が悪化していく状況をつぶさに目撃していたことなどの事情を併せ考えると、被告人には、ホテルの管理人室を介し、あるいは直接外部に電話をかけるなどの方法により(右i3から直接一一九番の緊急電話をかけることが可能であったことは、同ホテル管理人A15の原審証言に明らかである。)、右のような重篤な錯乱状態に陥った同女に対し、遅滞なく直ちに救急医療を受けさせて、同女の生存に必要な保護をなすべき刑法上の義務があったというべきである。

この点に関する弁護人の所論並びに右所論に沿う被告人の弁解は、その余の関係証拠に照らし到底容れることができない。

5  しかるに、先に認定したとおり、被告人は、同月八日午前零時半ころ以降において錯乱状態にあった同女につき、右の義務を尽くさなかったばかりか、前記のように、同日午前一時半ころ管理人室に電話をして、手を貸してくれるよう依頼し、これに応じて同日午前一時四〇分ころメイド二名がi3の入口まで来たのに、前もって迎えにくるように命じておいた前記A6が訪れると、覚せい剤の使用の事実などが発覚することをおそれる余り、メイドらをそのまま引き取らせ、D4を被告人に紹介したA7や、稼業上の兄弟分であるA13らとの電話連絡にいたずらに時間を費やし、結局、全裸で床に倒れている右D4に対して、その額に濡れタオルを当て、ホテル備え付けの浴衣をその体の上に着せかけたのみで、なんら同女の保護に必要な措置をとることなく、同日午前二時すぎころ管理人室へ電話で、「用事で一時間程外出するが、女の子は容態がよくなったのでそのまま残していく」旨連絡したうえ、同日午前二時一五分ころ、A6とともに同人運転の車で同ホテルを立ち去り、そのまま同ホテルには戻らなかったのである。

6  このような被告人の所為について、原判決は、被告人が保護責任者としての義務に反してD4に対し必要な保護を与えなかったと判断して、刑法二一八条一項の保護者遺棄罪の成立を認めたが、死亡の結果については、「本件のように不作為による遺棄行為によってD4を死に至らせた場合は、被告人の遺棄行為がなければD4は確実に死ななかったこと、すなわち、被告人の遺棄行為と同女の死亡との間の因果関係が証明されなければ、同女の死亡の結果について被告人に刑事責任を問うことはできないと解すべきところ、前述のとおり、死体の鑑定結果によるとD4は被告人の退室後二時間程度しか生存していなかったことがうかがえるうえ、司法警察員作成の検視調書、医師A22作成の死亡診断書(死体検案書)によれば死亡推定時刻は午前三時ころとされていること、同女の死体が発見された際、死体の位置、姿勢は被告人らが立ち去った時とほとんど変化がなく、同女の額の上に乗せられた濡れタオルがずれ落ちておらず、かぶせられた浴衣もほとんど乱れていなかったこと等の事情が認められ、そうすると、同女は被告人らが立ち去った後すぐに死亡したのではないかとの疑いを払拭することができず、さらに、A17鑑定及びA18鑑定も、同女が適切な救急措置を受けておれば救命された可能性を否定することができないとはするものの、現実にどの時点で医師の診察・治療を求めておれば確実に救命することができたかについては、正確な意見を述べることはできず、逆に同女の死亡の可能性も否定できず、現実の救命可能性が一〇〇パーセントであったとはいうことができないともしており、そうすると、同女の死亡は被告人が遺棄行為によって与えた危険が現実に具体化した結果であるとは断定しがたく、被告人の遺棄行為がなく、同女の異常な言動が発生した後直ちに医師の診察・治療が求められたとしても同女は死亡したのではないかとの合理的な疑いが残るといわざるを得ない。」と判断し、「本件保護責任者遺棄致死の訴因のうち保護責任者遺棄の事実については証拠によってこれを肯認することができるものの、右遺棄行為とD4の死亡との間の因果関係の存在については、その証明が十分でないと言わなければならず、被告人は保護責任者遺棄罪の限度で刑事責任を負うべきである。」と結論するのである。

7  しかしながら、原判決の右判断のうち、被告人の右所為につき刑法二一八条一項の保護者遺棄に該当すると認めたことは相当として是認できるが、被告人の遺棄行為とD4の死亡との間の因果関係を否定し、同法二一九条を適用しなかった判断には、到底与することができない。

関係証拠、とくに証人兼鑑定人A17の原審供述(第二〇回公判調書)、同人に対する原審の尋問調書、証人兼鑑定人A17の当審供述(第九回公判調書)及び同人作成の鑑定書(以上をまとめてA17鑑定という。)、証人兼鑑定人A18の原審供述(第二一回、第二二回各公判調書)及び同人の検察官に対する供述調書(以上をまとめてA18鑑定という。)、検察官竹田勝紀作成の報告書二通、司法警察員A23作成の捜査報告書、北海道警察本部刑事部科学捜査研究所技術吏員A20作成の昭和五八年六月一五日付鑑定書、右A20ほか一名作成の同年五月二五日付鑑定書を総合すると、D4の死因は、覚せい剤の使用による急性心不全であり(その死後の推定経過時間は、死体解剖の開始時刻である昭和五八年五月八日午後四時ころまでにおよそ一二時間ないし二四時間と推定される。)、同女の血液中には血液一〇〇ミリリットル当たり一七八マイクログラムの覚せい剤フェニルメチルアミノプロパンの存在が認められるのであるが、本件の発生した昭和五八年五月当時においても、札幌市内には二四時間体制で救急医療を施す医療体制が確立されており、救急措置についての専門的訓練を受けた救急隊員が乗り組む救急用自動車(以下、救急車という。)約二〇台が各消防署とその出張所に配備されて常時出動可能な態勢にあり、市内から緊急電話(一一九番)で要請すれば、平均所要時間約六分で市内の現場に救急車が出動し、平均所要時間約一四分で傷病者を救急医療機関に緊急搬送することが可能であって、その搬送途中においても、救急隊員が容態に応じて呼吸補助、心臓マッサージなどの救急措置をとりつつ専門医療機関へ急行することができたこと、本件の発生したホテルi2の場合であれば、救急車の到着までの所要時間は五ないし八分であることが認められる。したがって、本件の場合、ホテルi2の地理的位置関係(関係証拠によると、同ホテルはJR札沼線b駅の南方約五〇〇メートル、札幌市街北部の交通至便の場所にある。)、本件の発生時間(深夜であったから道路の輻輳はなかったと思われる。)なども併せ考えると、右ホテルから直ちに救急医療を要請しておれば、前記の平均所要時間(約二〇分)程度の時間内に救急車が出動して右D4に応急の措置を施しながら人的物的設備の整った二四時間体制の救急医療機関に搬送することが可能であったと認められ(なお、D4に覚せい剤を注射して急性症状の原因を与えた被告人は、保護責任のある者として同女の救急医療を要請するにあたって、右症状の原因が覚せい剤による旨及び使用の時期、方法、分量など救急医療上参考となるべき知る限りの事柄を告知する義務があったというべきである。)、また、搬送を受けた医療機関においても、急性症状の原因が明確な本件の場合、原因解明の手間を省いて直ちに、呼吸補助の措置、心臓機能低下に対応する措置、さらには覚せい剤の体外排出促進の措置等、覚せい剤により重篤な急性症状を起こしたD4の救命に必要かつ適切な医療措置を施すことが可能であったと認められる。

そして、D4は一三歳一一か月と若く、生命力が旺盛で、ことに、証拠上、心臓、腎臓等の循環器系統に特段の疾病がなかったと認められることなども併せ考えると、「D4が錯乱状態に陥り部屋の中で動きまわるなど活発に動作していた段階(これは、証拠上、八日午前零時半ころから被告人が管理人室に手伝いを求めた午前一時半ころまでの間であると認められる。)までに適切な救急医療を施しておれば、十中八、九救命は可能であり、その後体を活発に動かさなくなった段階(これは、証拠上、同日午前一時半ころ以降と認められる。)においても、救急医療を施すことにより救命できた可能性はかなり高い。」旨の、救急医療の専門家である札幌医科大学助教授A18の鑑定結果(法医学の専門家である同大学教授A17の鑑定結果も同旨であり、A18鑑定と矛盾する点は認められない。)は十分措信できるというべきである。

このように検討すると、五月七日午後一一時すぎころ被告人がD4に覚せい剤を注射して後、D4が頭痛、胸苦しさ、吐き気などを催し、それが次第に高進して、前記の錯乱状態に陥ったと認められる翌八日午前零時半ころ以降の時点において、同女は、覚せい剤の重篤な急性症状を起こして健康を害し身体の自由を失い、病者として緊急に適切な医療の措置を施すことが必要な状態にあったのであり、しかも、同女に覚せい剤を注射した被告人は、同女とともにi3に居て、このような同女の容態を目撃し、症状の成り行きを十分認識していたのであるから、もはや一刻の猶予も許されず、躊躇することなく救急医療を要請すべき義務があったというべきであり、被告人が右の義務を十分尽くしておれば、同女を救命することができたと認めることができる。したがって、同女が錯乱状態に陥った五月八日午前零時半ころの時点において、直ちに救急医療の要請をおこなわずに、漫然同女を放置したまま立ち去った被告人は、同女の生存に必要な保護を行わなかったために、同女を死に致したものというべきである。その際、救急医療を要請すると被告人の覚せい剤使用等の事実が発覚する虞れがあったことは、被告人が救急医療の措置を要請しなかったことの正当な理由になり得ないことは言うまでもない。

8  原判決は、被告人の遺棄行為とD4の死亡の結果との間の因果関係の証明が十分でないと言うのであるが、原判決が指摘するように、被告人が五月八日午前二時一五分ころホテルi2i3を立ち去った直後にD4が死亡した可能性を否定できないとしても、先に検討したとおり、遅くとも同女が錯乱状態に陥ったと認められる同日午前零時半ころの時点において、直ちに医療機関に連絡して、同女に救急医療の措置を受けさせておれば、救命することが十分可能であったというべきである。

この点につき原判決は、A17、A18両鑑定とも、現実にどの時点で医師の診察・治療を求めておれば確実にD4を救命できたかについて正確な意見を述べることができず、現実の救命可能性が一〇〇パーセントあったとは断言できなかったとして、結局、被告人の本件遺棄行為とD4の死亡の結果との間の因果関係を認めないのであるが、原判決のA17、A18両鑑定に対する右の評価、そしてこれを前提とした右因果関係否定の判断は、決して当を得たものとは言いがたい。

A17、A18の両証人兼鑑定人が、五月七日午後一一時すぎの覚せい剤による頭痛、胸苦しさ、吐き気などの急性症状の発現から翌八日午前零時半ころないし午前一時半ころにかけての錯乱状態、そしてこれに続く動作の不活発な状態と、刻々容態の変化する約二時間半ないし三時間程度の短い時間帯の中で、D4につき「現実にどの時点で医師の診察・治療を求めておれば確実に救命することができたかについては、正確な意見を述べることはできず」、「現実の救命可能性が一〇〇パーセントであったとはいうことができないともし(た)」(原判示)のは、事実評価の科学的正確性を尊ぶ医学者の立場として、むしろ当然のことというべきである。

被告人のD4につき「生存ニ必要ナル保護ヲ為ササル」所為(刑法二一八条一項後段)と同女の死亡との間の因果関係の存否を検討するに当たっては、関係証拠から認められる本件の事実関係を基に、前記A18鑑定、A17鑑定の各結果を参考にしながら、被告人の「生存ニ必要ナル保護ヲ為ササル」所為のゆえにD4が死亡したと刑法上評価されるか否かを判断すべきものであって、鑑定人が医学者の立場から、前記の時間帯のどの時点までに救急医療を施せばD4を確実に救命できたかを明らかにできず、一〇〇パーセントの救命の可能性を認めなかったからといって、そのことが直ちに右両者の間の刑法上の因果関係を否定すべきことには連ならないというべきである。

このような見地に立って、救急医療の専門家である証人兼鑑定人A18の原審供述を検討すると、同人は、前記のとおり、D4の救命の可能性についてはむしろ肯定的であり、A17鑑定もこれと同旨と認められるのであって、右7項において詳細に検討したとおり、被告人の「生存ニ必要ナル保護ヲ為ササル」所為とD4の死亡との間には刑法上の因果関係を認めるに十分である。

このような次第で、原判決は、D4の死亡の結果につき被告人の保護責任者としての刑責を認めなかった点において事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤ったものであって、その誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるというべきである。検察官の論旨は理由がある。

四  被告人の検察官に対する各供述調書の任意性について

被告人は、原審段階から公訴事実をすべて否認し、被告人の検察官に対する供述調書の信用性を争うとともに、当審にいたって、原審が証拠に採用した被告人の検察官に対する供述調書は、いずれも被告人の体調の不調に乗じ、あるいは別件の覚せい剤取締法違反罪を不問に付するなどの利益で誘導して作成した内容虚偽の調書であるから、信用性がないのみならず、任意性がない旨主張する。

そこで、原審が証拠に採用した被告人の検察官に対する各供述調書の任意性について、ここに一括して検討を加える。

原審第二回公判調書中の証人A1の供述部分、原審第八回公判調書中の証人A10の供述部分、原審第二回、第一七回、第一八回、第一九回各公判調書中の証人A5の供述部分、当審第四回公判調書中の証人A19の供述部分、検察官A19作成の報告書(添付の原稿用紙一葉を含む。)及び当審において被告人の供述経過を明らかにするために取調べた被告人の供述調書等の関係証拠を検討しても、捜査官において被告人の持病である直腸脱の悪化に乗じ、あるいは別件の覚せい剤取締法違反事件を被告人に有利に処理するなどの利益供与を示唆して誘導し、被告人の真意に出ない内容虚偽の供述調書を作成したなどの疑点は見い出せない。かえって、証人A19の前記供述部分、同人作成の報告書などに徴すると、被告人は、D4の死に痛く衝撃を受け、真摯な態度で取調べに応じ、昭和五八年七月一五日付の検察官に対する供述調書作成の直後には、取調べにあたったA19検察官に特に用紙を求めて同女の死を悼む短歌をしたためて同検察官に示すなどしたことが認められるのである。

したがって、この点に関する所論は容れることができない。

第二原判決の無罪部分について

検察官の論旨は、原判決は昭和五八年八月一六日付起訴状第一のA14に対する覚せい剤の無償譲渡の訴因につき、右A14の証言の信用性を否定して事実を誤認したものであり、また検察官に釈明を求めて犯行場所について訴因の変更を促せば、容易に有罪を認定できたのに、これをしないまま犯罪の証明がないとして無罪の判決を下したことは、刑事訴訟法三一二条二項、刑事訴訟規則二〇八条所定の訴訟手続に違反した点で、判決に影響を及ぼす誤りがあると主張する。

そこで、所論にかんがみ検討を加える。

一  原判決は、昭和五八年八月一六日付起訴状第一の「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和五八年五月四日ころ、札幌市北区kl丁目u番地v所在のホテルi2のi3において、A14に対し、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンを含有する粉末約〇・〇三グラムを無償で譲り渡した。」旨の公訴事実について審理の結果、犯罪の証明がないとして無罪を言渡したが、その理由とするところは、およそ次のとおりである。

すなわち、原判決は、関係証拠によれば、被告人、A14を含む五名が昭和五八年五月二日夜から同月三日朝にかけて北見市内のホテルi1に投宿した事実及び同月九日にA14が警察に任意提出した尿中から覚せい剤フェニルメチルアミノプロパンが検出されたことから同日までに同女が覚せい剤を使用した事実がそれぞれ認められ、これらの事実に、被告人の検察官に対する同年五月三〇日付供述調書(自白調書)とA14の証言(原審第一二回公判調書)を併せみると、右公訴事実が証明されたかに見える旨判示しながら、右A14の原審証言は、(一)覚せい剤譲り受けの事実自体については、描写が具体的で詳細であるが、日時、場所については、証言まで約一年半の時の経過を考慮しても、「北見から帰った日の午後一〇時ころホテルi2に行った。」こと以外は極めてあいまいで、殊に、覚せい剤を譲り受けた部屋の番号、譲り受けの時刻、譲り受けた覚せい剤の量、ホテルを退出した時刻等については検察官の誘導によって述べていて、証人自身の記憶の根拠が明らかでないこと、(二)原審で弾劾証拠として取調べたA14の司法警察員に対する供述調書三通によれば、同女が覚せい剤使用の容疑で逮捕された同年五月九日以来一貫して、最終使用した覚せい剤は被告人から譲り受けた旨述べてはいるが、(1)同年五月九日付供述調書では、覚せい剤譲り受けの日時、場所、その形状について、「五月三日ホテルi2のi8号室で、一センチメートル四方のビニール袋入り一個を譲り受けた。」と述べながら、(2)同月一八日付の供述調書では、譲り受けの場所を「i3」と特段の説明もないままに言いか、え、譲り受けの日時を同月三日午後一〇時三〇分ころと述べ、覚せい剤の量の見本図を見せられて、譲り受けた覚せい剤の量を約〇・〇三グラムであったと袋の形状の図面まで描き、(3)同年八月四日には、ホテルi2へ行ったのは北見から帰った日、すなわち五月三日である旨、その時期を初めて北見への旅行と結び付けて述べ、覚せい剤譲り受けの日時とその分量につき、「五月四日午前零時ころ被告人から約〇・三グラムの覚せい剤を譲り受けた。」と、それまでと異なった供述をするなど、被告人からの覚せい剤譲り受けに関して供述が変遷していること、(三)しかも、A14の言うところでは、その当時までに被告人から覚せい剤を譲り受けた経験が複数回あり、また被告人とホテルi2へ同行した経験も複数回あるうえ、同女には被告人の他にも覚せい剤を打ってくれる者がいたことなどを挙げて、A14の原審証言は取調官の誘導に迎合した疑いのある同女の供述調書を背景になされていて、その信用性には多大の疑問があり、加えて、ホテルi2の管理人室のコンピューターのi3の使用記録とも矛盾するとして、結局、A14の原審証言は信用できず、他に被告人の捜査官に対する自白を裏付けるに足る証拠に欠け、結局犯罪の証明がないとして、右公訴事実について無罪を言渡した。

二  しかしながら、当裁判所は、原判決の右結論には与することができない。

1  本件公訴事実において、昭和五八年五月四日ころホテルi2で被告人から覚せい剤約〇・〇三グラムを譲渡されたとされるA14が、同年五月二日、被告人から誘われて北見へ同行して同地のホテルに一泊し、翌三日夜被告人らと共に札幌へ戻ってきた事情は、前掲第一の一(1)に認定したとおりであり、その後同月八日午後、同女が被告人に同伴して札幌方面北警察署に出頭し、右警察署において任意提出した同女の尿から覚せい剤フェニルメチルアミノプロパンが検出されたことは、原判決が証拠から認定するとおりである。

2  そして、被告人は、検察官に対する昭和五八年五月三〇日付供述調書において、「自分がA6から借金のかたとして預かっていた車を、D2が持って行ったまま行方が分からなくなったので、五月三日か四日の夜、同人の愛人であるA14をホテルi2に呼んで、右D2の居所を尋ねた際に、同女と一緒に覚せい剤を使用し、同女が使う分として耳かき二杯分くらいの覚せい剤をくれてやった。その分量は、警察で見せられた覚せい剤の分量見本に照らし約〇・〇三グラムくらいと思う。」旨自白したが、原審においてこの自白を全面的に覆し、右覚せい剤の譲り渡しの公訴事実を否認し、「五月三日の夜は、北見から札幌へ帰ってA14らと別れて後自宅にとどまっており、ホテルi2には行っていないし、再度右A14に会ったことはない。」と主張するのである。

3  ところで、A14は、本件当時一七歳で無職であったが、(一)原審で証言するところによれば、「当時懇ろな関係にあったD2から覚せい剤を打ってもらって覚せい剤に親しむようになり、昭和五八年三月か四月ころD2の親分でもある被告人を知るようになった。当時、自分は妊娠四、五か月であったが、D2は被告人の車を借りたまま一、二週間前から行方が分からなくなっていた。自分は、同年五月九日午前三時ころ、覚せい剤使用の容疑で北警察署で逮捕されたが、尿検査の結果、覚せい剤が検出された。自分は、五月六日か七日に覚せい剤を使用したことがあったが、その際使用した覚せい剤は、被告人から同月三日、すなわち被告人らと北見から戻った日の午後一〇時過ぎにもらったものである。当日夜になって札幌に戻ったが、着いた時間はわからない。一旦、札幌市m区xy丁目の自宅に帰ったが、D2のことを聞きたくて、その日の夜、多分、被告人の方から来いと連絡があって、夜一〇時ころ、ホテルi2へ行って被告人と二人きりで会った。

同ホテルには、D2と二、三度行ったことがある。部屋はi9号室かi10号室であったと思う。検察官にi3と言ったとすれば、それは当時の記憶のまま述べている。その部屋へいったらもう覚せい剤の注射の用意がしてあり、被告人が覚せい剤を打ってくれた。被告人自身も打ったかもわからない。それから、被告人から小さいビニール袋に入った覚せい剤を貰った。分量は、〇・〇三グラム位であった。その際被告人は、「A14、おまえだったらこれで二、三回できるべ。」と言った。当時、被告人はほかにも覚せい剤のパケを持っていた。被告人と肉体関係を結んだことはない。ホテルから帰るとき、貰った覚せい剤から三分の一位の量をもう一回打ってもらった。ホテルを出たのは翌四日だったが、その時間はわからない。午前四時ころと思うが、まだ明るくなってはいなかったと思う。貰った覚せい剤を五月六日の夕方に自宅で一回自分で打った。その残りは、もう覚せい剤は止めようと思ったから、流しに捨てた。その後逮捕されるまで覚せい剤を打ったことはない。自分の昭和五八年五月一四日付検察官に対する供述調書に、「五月三日の午後一〇時ころホテルi2に入ってすぐ被告人から覚せい剤を打ってもらい、翌四日の午前零時ころに覚せい剤を貰った。」とあるのならば、そのとおりである。ホテルi2には複数回行ったことがあるが、覚せい剤を貰った日を間違えてはいない。i3の間取りは覚えていない。北見から帰ってきた日に、被告人から電話で呼ばれてタクシーに乗って一人でホテルi2へ行った。被告人が先にホテルにいて、自分を待っていた。その後五月八日の明け方まで被告人とは会っていない。」というのである(原審第一二回公判調書)。

(二) また、当審が、第二回公判期日において、右A14に証言を求めたところ、大要、「昭和五八年五月八日か、九日ころ覚せい剤使用の容疑で逮捕された。被告人から貰った覚せい剤を逮捕の三、四日前に自宅で使用したが、そのいきさつは、昭和五九年一〇月ころ裁判所で証言(原審証言)したとおりである。被告人からホテルi2で覚せい剤を貰った部屋の番号は記憶していない。原審では、i3で貰ったと証言したが、これは、検察官から「調書ではi3で貰ったと述べているがそうか」と尋ねられたので、肯定したのである。今年(昭和六一年)になって、警察官に伴われて、ホテルi2に被告人から覚せい剤を貰った部屋の確認に赴き、一つ一つ部屋を見て回った。ホテルi2は、三階建で、一階が駐車場、二、三階にそれぞれ六、七室の客室があり、使用中の部屋が一、二あったが、殆どの部屋を見た。i3にも入ってみたが、覚せい剤を貰ったのがその部屋か否かはっきり思い出せなかった。部屋の中の記憶はあったが、この部屋でもらったという記憶はなかった。一番印象深かったのはi11号室であった。他にも三階の部屋二、三について記憶があった。被告人から覚せい剤を貰った部屋は、長椅子と椅子みたいに腰掛けられるような高さのべッドの備えてある部屋であったので、i11号室が一番印象が深かった。昭和五八年五月一四日に検察官から取調べられたことがあり、その折にi3で貰ったと言ったのは、最初わからないと言ったところ、警察の取調べのときi3と話していると言われたので、間違いないと答えたのである。今回ホテルに行ってみたところでは、i3ではなさそうに思う。これまでに、ホテルi2にはD2と一緒に行ったことがあり、入ったことのある部屋は四つくらいある。被告人たちと一緒に北見から札幌へ帰ってきた時間はわからない。被告人から覚せい剤を貰った日に、自分はホテルi2に夜呼ばれて行って、夜中に帰宅したが、はっきりした時間はわからない。この点、原審で午後一〇時ころ行って、翌朝午前四時ころまでいたと言ったかもしれないが、今はわからない。被告人から自分の家に電話をかけてきたので、ホテルに出向き、エレベーターで上がり、前もって知らされていた番号の部屋に行ったと思う。原審で、北見から帰った日に被告人からホテルへ呼ばれたと証言した内容は、真実であり、間違いない。北見から一緒に戻ったその日に、またすぐ被告人が自分をホテルへ呼んだ理由はわからないが、覚せい剤をくれるために呼んだのたと思う。この日自分は、被告人の注射器で覚せい剤を打ってもらったと思う。部屋に行ったとき、すでに注射器に覚せい剤を用意していたと思うので、被告人の注射器だと思った。自分が覚せい剤使用で逮捕される原因となった覚せい剤は、被告人から貰ったものに間違いない。その覚せい剤を貰ったのが、北見に行く前であったということはないと思う。北見から帰ってきた日に、被告人からホテルi2に呼ばれ、行ったときと、帰りがけの二回覚せい剤を打ってもらったうえ、覚せい剤の袋を貰った。これまでに被告人から覚せい剤を貰ったことは、二回以上ある。貰った場所は、いずれもホテルi2だったと思う。部屋はその都度まちまちであった。

被告人と付き合った期間は、一か月以内か以上か覚えていないが、肉体関係はない。i3とi11号室とでは、椅子、べッド、棚などか違う。i11号室のベッドは椅子のように座れるし、また、長椅子もあった。しかし、i3に長椅子があるか否かはっきりしない。被告人から最後に覚せい剤を貰った部屋がi11号室である印象が強い。いずれにせよ、ホテルi2の客室であったことは間違いない。自分がD2と付き合っていたから、被告人から無償で覚せい剤を貰えるのだと思っていた。被告人からD2の居場所を隠しているのではないかと聞かれたことがある。」旨述べたが、さらに、当審第七回公判期日においても、当審第二回公判期日におけるとほぼ同旨の証言をおこなっている。

4  これら原審及び当審におけるA14の各証言を検討すると、同女は、覚せい剤譲り受けの場所について、原審証言では、ホテルi2の何号室であったかはっきり覚えていないけれども、「検察官にi3と言ったとすれば、当時の記憶のまま述べている。」、「i3の間取りは覚えていない。」というのであるが、当審証言では、「その後昭和六一年になって、警察官に伴われて、ホテルi2に赴き、殆どの客室を見てまわり、i3にも入ってみたが、覚せい剤を貰ったのがその部屋かどうか思い出せなかった。i3ではなかったように思う。一番印象の深かったのは、備え付けの家具などから、i11号室であった。」旨述べていて(右見分の模様は、当審が取調べた司法警察員作成の昭和六一年一月一〇日付捜査報告書により裏付けられる。)、原判決が指摘するホテル管理人室備付けのコンピューターの客室使用記録にも徴すると、ホテルi2のi3は、覚せい剤譲り受けの場所として、同女の記憶に明確なものではなく、当初i3であったと述べたのは、同女の記憶違いであった疑いが濃いと認められる。そして、本件において他に譲り受けの場所を同ホテルのi3と認定するに足る証拠はない。

5  しかしながら、右A14の各証言は、その大要として、「被告人に同行して北見へ一泊旅行して帰ってきた日、すなわち昭和五八年五月三日の夜、被告人から電話で呼び出されてホテルi2の指定された客室へ赴くと、すでに被告人が在室していて、被告人から覚せい剤を注射してもらい、覚せい剤を少量(原審証言では、約〇・〇三グラムという。)貰って、翌四日の早朝帰宅したが、同月六日にこの覚せい剤の一部を自宅において自分で注射した後、使い残りの覚せい剤は流しに捨てた。」という点では一貫して明確な供述を繰り返しており、動揺するところがないのである。

右の点に関し原判決は、前記一で掲記した(一)ないし(三)の疑問点を挙げて、A14の原審証言には信用性に問題があると言うのである。

しかし、(一)覚せい剤譲り受けの場所については、先に検討したとおり、同女の証言によっても、「ホテルi2の客室」という以上に具体的な部屋の特定はでき難いが、その限度では証言は一貫しており、その時期、覚せい剤の量については、原審及び当審においてたびたび質問されても、同女は、「被告人らと北見に一泊旅行して札幌へ戻った日(この日が昭和五八年五月三日であることは、本件証拠上明らかであって、被告人も認めて争わない。)の夜から翌日の早朝にかけての時間帯に、小さいビニール袋入りの覚せい剤(原審証言では、〇・〇三グラムくらいと言う。)を貰った。」旨を、揺るぐことなく、確信をもって供述していることが認められるのであって、「北見への一泊旅行から戻った日の夜」という特別の出来事との結び付きにおいてその時期を特定していること、そして、同女が証言にあたって、被告人からの覚せい剤の譲り受けに関し、ことさらに虚言を弄する理由も見い出し難いことなどを併せ考えると、これらの点に関する同女の証言は、十分信用に値するというべきである。

原判決は、覚せい剤譲り受けの時刻、覚せい剤の量、右ホテルを退出した時刻等についての同女の原審証言の信用性が薄い理由として、「検察官の誘導により、以前検察官に対して述べたことならそれに間違いないとして供述されたものにすぎないうえ、これらを特定した根拠につき何ら触れるところがない。」と言う。たしかに、同女の原審証言中には、検察官の質問に対し、「自分の昭和五八年五月一四日付検察官に対する供述調書に、「五月三日の午後一〇時ころホテルi2に入ってすぐ被告人から覚せい剤を打ってもらい、翌四日の午前零時ころに覚せい剤を貰った。」とあるのならば、そのとおりである。」旨述べている部分があり、右供述は、検察官の誘導的質問に対して行われたことが認められる。しかし、同女の原審証言をつぶさに検討すれば、同女は、「被告人らと北見に一泊旅行して札幌へ戻った日(昭和五八年五月三日)の夜から翌日早朝にかけての時間帯」に前記ホテルの客室に被告人と滞在し、その間に、被告人から覚せい剤を注射してもらい、小さいビニール袋に入った覚せい剤約〇・〇三グラムくらいを貰ったことを、自発的にはっきりと証言しているのであって、検察官の誘導に乗ったかたちで行われた原判決指摘の前掲供述は、右ホテルに入った時刻、覚せい剤を注射した時刻、譲り受けた時刻及び右ホテルから退出した時刻等について、同女が正確な時刻を記憶していないことから(同女が証言時に、これらの正確な時刻を記憶していないからといって、同女の覚せい剤譲り受けについての本件証言が直ちに信用できないということにはならないことは、言うまでもない。)、検察官がなおそれらの時刻を明確にしょうとして試みた質問に対応する供述であったことが明らかである。してみると、右の点に関する原審の判示は正鵠を射たものとは言えず、同女の原審証言の信用性が薄いことの理由付けとしては是認し難い。

(二) また、原判決指摘の同女の司法警察員に対する供述調書(三通)と対比した供述の変遷についても、覚せい剤を譲り受けた客室の特定の点は、先に検討したように、もともと同女の記憶があいまいであったとみられるのであり、その時期については、五月三日の夜から翌四日の早朝にかけてであることにおいて、供述に特段の変遷があったとは認められず(同女は、司法警察員に対する昭和五八年五月九日付供述調書(謄本)で、譲り受けの日を「同年五月三日」と供述しているのであるから、司法警察員に対する同年八月四日付供述調書で、覚せい剤譲り受けの日を北見への旅行から戻った日と結び付けて、「五月三日の午後一〇時半ころホテルi2へ赴き、翌四日の午前零時ころ覚せい剤を譲り受けた」旨供述したからといって、特に不自然な供述の変遷があったとは言えない。なお、同女は、当審第七回公判期日における証言で、「警察で、五月一日からの行動を言ってみなさいと言われ、自分の手帳を見たか何かして、この日は北見へ行ったと話した。警察の方から、北見に行つていたのではないかと聞かれたのではない。」旨述べていることからすると、北見旅行の日との結び付けば、捜査官の誘導によったものではないことが明らかである。)、また、その分量についても、同女の司法警察員に対する五月一八日付供述調書(謄本)、被告人に対する八月一六日付起訴状記載の本件公訴事実、同女の原審証言では、いずれも「約〇・〇三グラム」とされているのに、本件起訴直前の同女の司法警察員に対する八月四日付供述調書のみ「約〇・三グラム」と記載されていることに徴すると、右八月四日付供述調書の分量の記載は、供述録取者の単なる書き誤り(零の書き落とし)ではないかとも推認されるのであって、覚せい剤の分量についてのこのような記載の齟齬が、同女の原審証言の信用性を左右する理由になるとは認め難い。

(三) そして、同女が、それまでにも、被告人から覚せい剤を譲り受けたことがあり、被告人と前記ホテルで会ったことがあること、被告人の他にも覚せい剤をくれる者がいたこと等の事情も、同女の原審証言の信用性を左右するものとは言い難い。

6  このように検討すると、A14が原審及び当審において、大要、「被告人に同行した北見への一泊旅行から帰宅した日、すなわち昭和五八年五月三日の夜、被告人から電話で呼び出され、ホテルi2へ赴き、同ホテルの客室で被告人に会い、覚せい剤を注射してもらい、覚せい剤を少量(約〇・〇三グラム)貰って、翌四日の早朝帰宅し、同月六日にこの覚せい剤を自宅において自分で注射した後、残りは流しに捨てた。」旨述べるところは、十分信用できるというべきである。

他方、被告人は、原審において、「五月三日は北見から夜八時半か九時ころ札幌へ戻ってA14らと別れ、そのまま自宅のg荘三号室にいた。その後A16から電話があり、午後一〇時ころA6(芳美)が自宅へ訪ねてきた。そして、午後一一時ころ再びA16からA6が訪問したか問い合わせの電話があった。同夜A14と別れてからホテルi2へ赴いたことはなく、再び同女と会ったことはない。」旨述べ、当審でもほぼ同旨の供述をして、本件覚せい剤譲り渡しの事実を全面的に否認し、被告人の子分であって、被告人の北見行きに同行して車を運転した原審証人A16も、「五月三日北見から戻って被告人をbの自宅へ送り、その後、午後一〇時半と翌四日の零時半くらいに被告人の自宅へ電話をかけた。」旨、被告人の右供述を裏付けるかのような供述をしているが、これらの供述は、これまで検討したA14の各証言等に照らし、にわかに措信し難いばかりでなく、A16が被告人の自宅にかけたという電話の時刻の正確性は判然としないし、また、ホテルi2は被告人の自宅からごく近い距離にあって、被告人が出向くのに殆ど時間を要しないと認められることなどの事情を考慮すると、A16が被告人の自宅へその晩電話した事実があったとしても、その電話の時間次第では、被告人がその晩ホテルi2へ赴き右A14と会った事実と、必ずしも両立しない事実とは言えない。

また、被告人は、当審段階になって、原審で取調べた司法巡査作成の昭和五八年五月一六日付捜査報告書添付の電話レシート写の記録を見て思い出したと称して、「五月四日午前一一時ころホテルi2のi12号室に入り、午前一一時四五分ころ自宅へ電話をかけた。」と主張し、そのことを前提に、同ホテルの客室使用料金システムなどに徴し、自分が前日である三日夜から四日朝にかけて同ホテルに滞在した筈はないと主張する。検討するに、右捜査報告書及び同報告書添付の電話レシート写の記録によれば(これが昭和五八年度の記録であることは、検察事務官作成の昭和六三年二月三日付報告書に明らかである。)、同ホテルのi12号室から昭和五八年五月四日午前二時四五分に、○-○-×○×○

番(下二桁の数字は記録されず、不明である。)に約三七秒間電話がかけられた事実が認められるところ、右は被告人の自宅の電話番号(○-○-×○△○番)と上五桁の数字が一致するが、右の記録から右電話が被告人によってかけられたと直ちに判定することはできないばかりでなく、仮にこの点が被告人の言うとおりであるとしても、被告人が五月三日夜から四日朝にかけて同ホテルの客室に滞在しなかったことの確たる証拠とはなり得ないというべきである。

7  更に所論は、本件に関する被告人の前記検察官に対する供述調書(自白調書)は、被告人の身体の不調を利用し、あるいは利益誘導して作成された内容虚偽の調書であって、任意性及び信用性を欠くと主張し、被告人もこの主張に沿う供述をするのであるが、任意性に関する主張が容れ難いことは、先に第一の四において、その余の自白調書とともに検討したところであり、A14の前記各証言等の関係証拠に徴し、信用性も十分であると認められる。

8  このように検討してくると、本件の公訴事実については、ホテルi2の「i3」で覚せい剤の譲り渡しが行われたことの証明はないが、関係証拠上、同ホテルの客室のうちのいずれかにおいて、被告人からA14に対し覚せい剤の譲り渡しが行われたことの証明は十分であると認められる。

そして、関係証拠によれば、同ホテルは階下が駐車場で、二階に客室六室(i13号室、i8号室、i3、i15号室、i14号室、i11号室)と管理人室、三階に客室八室(i16号室、i17号室、i18号室、i19号室、i20号室、i21号室、i12号室、i22号室)があるだけの小規模な、しかも比較的短時間の利用客相手のいわゆる連れ込みホテルであって、各客室には調度類など若干の違いはあるが、概してそれぞれの特徴がないことなどの事情も考慮すると、本件覚せい剤の譲り渡しが同ホテルのいずれの客室で行われたかは、本件の訴因の特定の上からは必要不可欠な記載とは言い難く、また、被告人は、原審の審理当初から、本件公訴事実を全面的に否認し、「北見への旅行から帰った昭和五八年五月三日の夜から翌四日朝にかけては自宅におり、同ホテルに出向いたことはない。したがって、右の時間帯に同ホテルでA14と会って覚せい剤を譲り渡したことはさらにない。」旨強く主張している事情にもかんがみると、右の覚せい剤譲り渡しの場所について検察官の訴因の変更ないし補正を経ないでも(原審立会い検察官は、本件訴因につき、覚せい剤の譲渡が「ホテルi2i3において」行われたことの立証が困難であることが判明した時点において右の具体的客室名の記載を削除し、単に「ホテルi2の客室において」と補正するのが相当であったと認められる。)、原判決は、A14の原審証言をはじめとする本件関係証拠に徴し、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和五八年五月四日ころ、札幌市a区kl丁目u番地v所在のホテルi2の客室において、A14に対し、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンを含有する粉末約〇・〇三グラムを無償で譲り渡した。」旨認定すべきであったのであり、そのような認定をおこなっても、被告人に不意打ちを与え、その防御権を不当に侵害するおそれはなかったというべきである。

9  したがって、検察官の所論のうち、訴訟手続の法令違反の主張は容れ難いが、原判決の事実誤認を主張する論旨は理由があり、右事実の誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決の無罪部分は破棄を免れない。

第三そこで、結局、原判決の有罪部分、無罪部分のいずれとも維持することができないから、原判決の有罪部分につき未決勾留日数の本刑算入に関し量刑不当を主張する被告人の控訴趣意については判断を加えるまでもなく、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を全部破棄し、同法四〇〇条但書により、被告事件につき更に次のとおり判決する。

被告人は、

1  原判決が原判示第一の一ないし四の各事実に関しそれぞれ挙示する証拠によれば、原判示第一の一ないし四のとおり、覚せい剤取締法違反の各罪を犯し、

2  原判決が原判示第二の事実に関し挙示する証拠に当審で取調べた関係証拠(当審第四回、第五回、第六回各公判調書中の被告人の供述部分、当審九回公判調書中の証人兼鑑定人A17の供述部分、検察事務官作成の昭和六三年二月三日付報告書)を併せみると、昭和五八年五月七日午後一一時ころ、D4(当時一三歳)を伴って、同女と二人で原判示第二のホテルi2のi3に入り、同室内において、午後一一時一〇分ころ、原判示第一の四のとおり同女の左腕部に覚せい剤約〇・〇四グラムを含有する水溶液約〇・二五立方センチメートルを注射したところ、まもなく、同女が頭痛、胸苦しさ、吐き気等の症状を訴えはじめ、これが次第に高じて翌八日午前零時半ころには更にその訴えが強くなり、「熱くて死にそうだ」などと言いながら、着衣を脱ぎ捨て、二階にある同室の窓のガラス戸を風呂場の引き戸と錯覚して開けて、戸外に飛び出そうとし、部屋の中を無意味に動き回るなど、覚せい剤による錯乱状態に陥り、正常な起居の動作ができない程に重篤な心身の状態に陥ったのであるが、被告人としては、前記A7が七日の午前中に同女に覚せい剤を注射してやった旨聞知しており、しかも自ら前掲原判示第一の四の事実を含め二回にわたり同女に覚せい剤を注射した事情にあり、同女と前記i3に同室して右の異常な状態を終始目撃していて、覚せい剤による強度の急性症状が同女に発現したものであることを十分認識していたのであるから、同女が右の錯乱状態に陥った八日午前零時半ころの時点において、直ちに救急医療を要請して、病者である同女の生命、身体の安全のために必要な保護をなすべき法律上の責任があったにもかかわらず、このような措置をとることなく同女を漫然放置し、同日午前二時一五分ころには同ホテルを立ち去り、もって同女を遺棄し、よって同日午前四時ころまでの間に、同ホテルi3において、同女を覚せい剤による急性心不全により、死亡するに至らせ、

3  被告人の検察官に対する昭和五八年五月三〇日付供述調書、原審第一二回公判調書、当審第二回、第七回各公判調書中の証人A14の供述部分、原審第一四回公判調書中の証人A16の供述部分、A14作成の尿の任意提出書謄本、司法巡査作成の昭和五八年五月九日付右尿の領置調書謄本、A14作成の鑑定承諾書謄本、北海道警察本部刑事部科学捜査研究所化学科技術吏員A20作成の昭和五八年五月一六日付鑑定書(北鑑第一八二号に対するもの)謄本、司法警察員作成の昭和五八年六月二四日付宿泊事実の裏付けについてと題する捜査報告書、A24扱いの六月二三日付電話聴取書を併せみると、法定の除外事由がないのに、昭和五八年五月四日ころ、札幌市a区kl丁目u番地v所在のホテルi2の客室において、A14に対し、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンを含有する粉末約〇・〇三グラムを無償で譲り渡した

ことが、それぞれ認められる。

なお、原審弁護人は、右2の保護者遺棄致死の犯罪事実に関し、D4に医療を受けさせるために医療機関等に連絡するなどの措置をとることを被告人に期待することはできない旨主張するが、関係証拠によれば、被告人が同女に覚せい剤を注射して間もなく同女に急性症状が発して錯乱状態に陥り、同女の様子は異常なものであったのであるから、その原因が覚せい剤にあることは容易に感知できたはずであって、覚せい剤を注射した後、同女の右のような状況の一部始終を目撃していた被告人が、同女に医療を受けさせるための連絡など緊急の措置をとるべきは当然であり、被告人にそのような措置にでることを期待できないような状況がなかったことは、これまで右の犯罪事実につき詳しく検討してきたところから明らかである。そして、被告人の覚せい剤使用等の事実が発覚する虞れがあったことは、被告人が医療の要請を行わなかったことの正当な弁解となり得ないこともまた明らかであって、右弁護人の主張は容れ難い。

そこで、前示1の原判示の罪となるべき事実第一の一ないし四の事実につき、原判決が右各事実に対して該当法条として挙示する各法条を、前示2の保護者遺棄致死の事実につき、刑法二一九条(二一八条一項)、i15条一項、一〇条を、前示3の覚せい剤譲渡の事実につき、覚せい剤取締法一七条三項、四一条の二第一項二号を各適用し、被告人には原判決挙示の累犯前科があるから、いずれも刑法五九条、五六条一項、五七条により(前示1のうちの原判示第一の二の罪及び前示2の保護者遺棄致死の罪については、いずれも同法一四条の制限に従う。)累犯の加重をし、以上の各罪は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により最も重い右2の保護者遺棄致死罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で処断することとなるが、量刑について考えるに、本件は、昭和五七年一〇月前刑(覚せい剤所持の罪及び使用の罪各一回により、懲役一年六月)を受け終えて出所した被告人が、懲りることなく半年余り後にまたも前示1、3の覚せい剤取締法違反の各罪を犯し、加えて、前示2のとおり、D4(当時一三歳の中学二年生)をいわゆる連れ込みホテルに伴って覚せい剤を注射してやり、間もなく同女が覚せい剤による急性症状を発して苦痛を訴え、錯乱状態に陥り、病者として緊急に医療を受けさせる必要が生じると、その原因を与えておきながら係わりを嫌って、直ちに救急医療を要請するなど同女の救命に必要な措置をとらなかったばかりか、なんら有効な手当を施さずに漫然放置し、ホテルの管理人室には、「一時間ほど外出するが、女は容態がよくなったのでそのまま残していく。」旨取り繕って立ち去り、その結果、同女をなんら医療を受けず、また枕頭で看取る者もない状態のまま、連れ込みホテルの客室で死亡するに至らせたものであって、犯情まことに悪質というほかなく、被告人には昭和三七年以来、覚せい剤取締法違反罪を含め七犯の前科歴(そのうち、覚せい剤取締法違反罪の前科三個が本件各罪とそれぞれ累犯の関係にある。)があり、本件の態様等にも照らし、覚せい剤との係わりが相当に深いことが明らかであることなども考慮すると、老母を抱えていることなど被告人のために酌むべき事情を十分斟酌しても、被告人は本件各犯罪について相当重い刑責は免れないというべきである。よって、被告人を懲役六年に処し、原審における未決勾留日数の算入につき刑法二一条を、訴訟費用のうち原審における訴訟費用の一部を負担させることにつき刑事訴訟法一八一条一項本文を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡本健 裁判官 高木俊夫 裁判官 佐藤學)

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